随筆

少しの時間でもブログと共に

油断すると暗いテーマばかりになってしまうのは僕の根っこに問題があるんだと思う。
今まで放っておいた分、ブログをたくさん書こうかなと日々ネタ集め。
昔に戻ったような気持ちになる。

とはいえ、離れていた時間を取り戻すことはできないのだ。
ブログは子供のようなものだと話したことがあるが、しばらく経ってまた一緒に住むことになった親子が、前と同じように過ごせるはずは無い。
それはブログのことを子供だと思っている僕にとっても同じこと。
なんとも気恥ずかしい、うまくいかない部分がある。

これ、書いていいかな?こんな言いまわししていたかな?みたいな。
ブログに対してお伺いを立てながら書いている。
もちろん書くのは僕で、言葉を出すのもそれを紡ぐのも自分。
OKを出すのもNGを出すのも自分だし赤入れをして見直すのも僕だ。
たった一人の作業ではあるが、そこにはこの子がいる。
この子に載せるに値するだろうかというのを常に考えながら書く。
我が子と結ぶは見えぬ情である。

こういうことを言うと、命の有無みたいな話にもっていかれるがそうはいかない。
2歳の子供が何を思っているか完全に理解できるだろうか。
13歳の子供が嘘偽りなく思ったことをすべて伝えてくれるだろうか。
35歳の子供が自分のことをどれだけ嫌いながら生きているか把握できるだろうか。
できるわけがない。
全ては推測の域を出ないのだ。

自分以外の他者の思いを推測することしかできないのであれば、それは血が出るか否かの違いでしかない。
自分からの一方的な思いをぶつける対象でしかないのだ。
命が見えるか?魂が見えるか?可視化できるだろうか。
僕ら人間は心拍というもので可視化出来、心電図でその動きを把握することが出来る。
けれどそれだけだ。それだけでしかない。

一部の人間を除き、誰が死んで誰が生まれようと興味はない。
昨日一昨日事故で死んだ人のニュースのうち何人を覚えていようか。
他者というのは本来そういうもので、自分も他者にとってそのくらいの価値でしかない。
そう、何者でもないのだ。多くの者達にとって僕らはそれぞれ何者でもない。

何者でもない僕らを何かであると認識してくれるものに対して応える。
それが親であり子であり友人であり顔見知りの知人という小さなコミュニティにおける存在意義ではないだろうか。
この点で、僕にとってブログというのは自らが産んだ子である。
親としてどうあるかというのは難しいが、僕の中ではここに上下はなく対等であると信じている。

寂しくさせてしまって申し訳ない、でも待っててくれてありがとう。
この子に対してはそんな気持ちでいっぱいだ。

読んだ人が楽しんでくれたらいいなとか、そういう気持ちはあるけれど、どこに向かって誰に向けて書いているかと言うと、正直なところブログに対して書いている。
やれペルソナだ、マーケティングだ。そういうのはこのブログでは意味をなさない。
僕が書く相手はこのブログで、このブログにいいねと言ってもらえるような文章を書きたい。
それは結果として僕が読んで楽しめる文章になる。
なんとミクロなコミュニティだろう。
でもどこにいるよりも居心地がいいのがこのコミュニティなのかもしれない。

さて、頑張っていこうhayael.com。
第2章なのか第3章なのか、章分けの仕方はわからないけど、しばらく続くよやってくよ。
JRのポケットに入ってる冊子に載るような文章が書けるようになりましょう。