フレンチトーストを仕込んでいる。牛乳卵液に食パンを入れて、箸でグサグサ刺したものを背に今この記事を書いている。
フレンチトーストは簡単な料理であるべきだという前提がある。世の中に出回っているレシピの中で、パンの枚数<玉子の個数となっているものは私的にアウト。
考えても見てよ、パン1枚食べるのに玉子を1個使ってるんだよ?そんな豪華な料理、フレンチトーストじゃないよ。ざっと作ってざっと食べたいんだよね。
この「ざっと」の工程にもったいないが混じってはいけない。もったいない<高級感を求めるようなもんじゃ「ざっと」とは言えない。
ざっと作って箸で食う。これが我が家のフレンチトーストだ。
【大天使ハヤエルの天界から来ました。】絶対に失敗しないフレンチトースト【vol.23】
失敗しないことの価値。失敗を楽しむ必要性。
昨今の気持ち悪い文化により、時短とか簡単とか絶品だとかホテル風だとかの情報がネット上には転がっているが、誰が作っても美味いもんは美味いし、甲乙つけがたいどころか付けようとも思わない。
小難しくしすぎというか、なんとなくの勇気が足りないというか。『失敗しない』ということの価値が上がりすぎているんだろうね。みんな正解を探しちゃう。
何かを作ろうとなったらすぐクックパッド。その中でもみんなが見ているランキング上位のレシピを見て作る。それが世間一般での正解だからだ。
「玉子と砂糖と牛乳を入れればできるのね。」ってチェックしたら、あとは自分のさじ加減で良いと思うんだよな。
気分でバニラエッセンス足してみたり、メイプルシロップかけるからベースの砂糖は減らしてみたり、アレンジじゃなくカスタマイズしていくのが面白いんだと思う。
おふくろがクックパッドじゃ面白みに欠ける
大した取材もしないでえらそうなこと言う気はないんだけど、今の親世代っておふくろの味を持ってんのかな。うちの場合、父親の好みに合わせた味が元々あって、そこに子供が意見を言って母が味を変えていた。
もっとしょっぺえのが好きなんだよというと、次に出てくるときはしょっぱくなっていたし、子供の好みと父の好みの間を取るために甘い茶碗蒸しとしょっぱめの茶碗蒸しの両方が食卓に並ぶこともあった。
レシピ本が好きでオレンジページを年に2回くらい買ってみたり、病院の待合室でレタスクラブ読んだり、テレビのお料理コーナーもよく見てた。けど、作るときは雰囲気で作っていた。
ああ、レバーにカレー粉をまぶすという手があるのね。玉子焼きにカニカマくるんでるけど美味しいのかね?そんなことを言いながら一緒にレシピを眺めていた。
「レシピ通り」は正論の暴力
極論、飯なんて食えればいい。味見しながら作っていれば不味くなることなんてないよ。がらりと変わりそうで不安なら少量だけ混ぜて味見すればいいんだから。
守破離の話をしていた人間としては、最初は守でありレシピ通りに作るべきなのではないかとも思うけど、あくまで最初の最初だけでいいと思う。
目玉焼きが作れて、オムレツが作れて、とんかつが揚げれて、カボチャを煮れたらそこから先はもう自由よ。戦士は戦場(いくさば)でしか成長しない。
「正解通りに作ったからこれは美味しいものだ」と出されても困るし、楽しくない。失敗したら次はこうしようって改善策を考えればいい。
ポン酢と牛乳を合わせたものは苦手とか味噌と牛乳の合わせは自分の口に合わないなとかわかってくるはず。世界一のパティシエのチョコレートよりもチョコワの方が美味く感じることだってあるよ、感覚だもの。
初めて作る料理とか、他のレシピを試してみたいだとか、そういう理由でレシピを使うのはいいんだけど、普段の料理は大体うまくなれば十分じゃないかなと思う。
自作の飯こそ最強。だから私は家で食いたい。
私が作るフレンチトーストはたぶん一般的なものよりも甘い。ふわふわしていて箸で切れる。バターはたまに使うけど大抵の場合サラダ油で焼いちゃう。
ああした方が美味いかな、こうした方が美味しいかなと考えながら作っているから、どこで食べるフレンチトーストよりも自分で作るフレンチトーストが一番美味い。
そういう料理が作れるようになると、節約のための自炊じゃなく、一番美味いものを食うための自炊に変わる。誰にも食わせる必要のない料理は自分専用にカスタマイズできる最強飯だ。
食器洗いが面倒なだけで、家に帰れば一番美味いものが食えるとわかっているからこそ、外食する気にならない。
とはいえ、「付き合いが悪いわけではなくただ美味い飯が食いたいだけなんだ。」という理由で誘いを断ることなんてなかなかできるもんじゃない。相手を怒らせたいわけじゃないのだから。
失敗しない誘いの断り方のレシピは、どこの病院の待合室に置いてあるだろうか。
以上、『【てんきた】絶対に失敗しないフレンチトースト【vol.23】』でした。