悔しい。何もできなくて悔しい。そう思うことが多い。何かができるように努力するわけでもないのに、何かができる人でありたかった。
何かができる人になりたかったのではなく、ありたかった。
ドラゴンボールを見ていて、自分にも亀仙人がいてああいう修行を続けていればクリリンになれたんだろうかと憧れたこともある。今の自分を軸にするとクリリンにすらなれないよなって思ってしまう。
金にできることが何もできないだけ

だらけることはできるし、文章を書くこともできる。楽しい話もできる。じゃあこれがお金になるかというとそうはならない。僕と話すのは楽しいと思う。ものすごく楽しいと思う。じゃあそのことにお金を取りたいかというと、そんなことはしたくない。
結局、自分がお金を払いたいサービスでしかお金を取りたくないのである。
友達に頼まれたら文章くらい書く。絵だって描く。前に出てしゃべりもするし相談も乗る。薬の知識もあげるし健康相談だって乗るし、親の健康食品のアドバイスまでする。でもお金を取ろうとは思わない。かといって責任もって正しい対応しかしない。
別にこれをしているからといってお金も増えないし飯も奢ってもらえない。評価もされず褒められず、へーそうなんだとなって離れていくだけ。美味しいコーヒーを淹れてあげても、美味しいご飯を作ってあげても、材料費程度しか返ってきたことはない。
そういうスキルしかもっていないのである。
ブログをやっていても最近は広告の数を減らしている。押し売りに見えて嫌になってしまった。本当にいいことしか紹介したくないし、使って良かったものしか紹介したくない。読んだ人によくなって欲しいからたくさん調べて書いている。たまたま見た人がラッキーってなればいいなと思って嘘は書かないようにしている。
転職ブログの方もそうだ。「ほどくら.net」というすっかり薬剤師転職向けのサイトと化したブログも、使ったことのある転職サイトをメインに苦しくなく自信を持って働いて欲しいなという気持ちだけで書いている。同業者の気持ちがわかるからこそ、嫌な気持ちを減らして働いて欲しいなと思っている。
金になるスキルってのは自分から一番遠いところにある
多分、スキルというのはもう持っていて、人によっては金を出してでも欲しいといってくれるものだってある。
- こんなに美味しいコーヒーならお金を払うわ。
- 親切にしてもらって、ありがとう。お金を払うわ。
- 選ぶの手伝ってくれてありがとう、お金を払うわ。
- 薬について教えてくれてありがとう、お金を払うわ。
なぜこれが嫌なのか。自分のサービス、してあげたことに対して価値がつくというのが気持ち悪いんだと思う。私は500円分のコーヒーをあげたのね、悩んで選んであげたのが3000円の価値なのね。薬についての相談は1000円なのね。といった感じで自分のやることに対価が支払われるのがどうにも気持ち悪い。
だから理想は億万長者に飼われたい。「いくらでも金をやるから好きに生きていいぞ。その代わり人のために生きろよ。」って言われたら喜んでやる。自分の生活を気にせず、毎月30万円くらいくれるなら人のためにばかり生きられる。
人に何かをしてあげるのは好きだ。けれども対価をもらうのが苦手だ。これは資本主義社会においてかなり弱い立場となる。
やってもやらなくても、自分に対してすら大きな影響はない
してもいい、しなくてもいい。思ってもいい思わなくてもいい。
あの人の文章がとても上手いなと思ってもいいし、自分の文章が世界一だと思ってもいい。
あの人みたいになりたいなと思ってもいいし、私の文章をみんなが読みたいはずだと思ってもいい。
世の中意外と「てもいい」で溢れている。なのに勝手に「なければならない」に書き換えている。自分で。
どんどん自由を奪って生きづらくしているのは大抵自分だったりする。
極論どうだろう、生きていなきゃいけない理由なんてあるだろうか。独り身はもちろん、自分が子供だとしても子持ちだとしても考えて欲しい。いろんなケースを考えてくれていい。あなたにしかできないことはなんだ。
そう考えると、あなたの人生を生きること以外は代替が効くことに気づくだろう。
親が死んでも誰かが育てるし支援の手はある。子が死んで親が悲しんだとて親には親のやることがある。
独り身だとしてあなたに連絡してくれる人はいるか?あなたが突然いなくなって悲しむかもしれないけれどそれは永遠に続くか?その人は映画を見ている時も音楽を聴いている時もあなたのこと以外考えていないか?
非情かもしれないが大体の人は代えがきく。トランプ大統領がいなくなったら違う人が大統領になるだけ。どれだけ大きな規模の話でも、何も変わらない。
固執すべきことなんて何もない
この何も変わらない世界の中で、固執しなければいけないことって一体なんだろう。実はそんなものは存在しない。
織田信長が死んだからってあなたの人生変わったか?聖徳太子が法隆寺を建てたから、モンゴル人が攻めてきたから、十字軍が撤退したから、ナチスが横暴を働いたから、あなたの人生はものすごく変わっただろうか。そんなはずはない、だってそれらは全て過去のことだから。
そうじゃなかったかもしれないだけで、そうではなかったという事実しか残っていないし、あなたの生きる世界ではそれを背負うしかない。
僕と同じ次元に生きている人間の中では広島と長崎に原爆は落ちているし、神戸で地割れは起き、地下鉄にサリンは撒かれ、東北では津波が起き、福島の原発は壊れている。これが史実であり事実だ。
よく生きようとしたからといってそれらが変わるわけではないし、何もしなかったからといってこれから起きる災害を防げるわけでもない。もしかしたらどこかで起きる事故を防いだりできるかもしれないが、それでもアフリカの子は飢餓で死ぬ。
変えられる範囲というのは大抵の人にとって小さいことであり、それが誰をやったかより、成し遂げられたことがなんなのかに重きを置かれる場合は達成直前でリーダーが死んであなたの番になった場合にあなたが称賛を浴びるのと同じように、多くは運とタイミングでしかない。そんなものにリソースを割いて、悩み苦しむことにどれほどの意味があるのだろうか。
やってもやらなくてもいい「からやる」でも「からやらない」でもいい
何事も「してもいいし、しなくてもいい」のだ。そのことを念頭に置いて過ごしてほしい。
- 観光地に行ったけど、楽しくても楽しくなくてもいい。
- 家での生活が楽しくても楽しくなくてもいい。
- 筋トレしてもしなくてもいいし、健康でいてもいなくてもいい。
- 早起きしてもしなくてもいいし、約束なんて守っても守らなくてもいい。
- 怒ってもいいし怒らなくてもいい。
- 生きていてもいいし、生きなくてもいい。
- 人を殺してもいいし、殺さなくてもいい。
- 死んでもいいし、死ななくてもいい。
極端な話、法を守っても守らなくてもいい。法治国家では償えばオッケーなんだから。元犯罪者だろうがのびのびと生きられるのが法治国家のいいところだよ。
だから何かをしてもいいし、しなくてもいい。なるべくしたいことの比率が多くなるように過ごすと気持ち的に楽かなとは思うんだけど、楽に生きても生きなくてもいいし、したいことなんてしてもしなくてもいい。