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【てんきた】それ”しか”できないということの価値【vol.73】

大天使ハヤエルの天界から来ました。
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ネットに本棚を作りたい。読んだ本のレビューとかこれから読もうとしている本とかがずらっと並んでいるような。見た目を本棚にしたくて迷っている。

多分できるのよね。たとえば、固定ページ利用して本棚ページ作ってさ。レクタングルにして固定ページにしか表示されない記事をどんどん追加してっていう。でも昔ながらのさ、昔よくあったjava形式に憧れているんだよね本当は。

本が背表紙向けて並んでいて、その背表紙をタップしたらちょっと動いてさ。引き出してきて読めるみたいな。そんなのに憧れる。

昔の環境はそれしかできなくても褒められた

昔の環境は良くてさ。悪くなかったという言い方もできるんだけど。ガラケーでうまいこと動いてたじゃん。あれすごかったなと今でも思う。

というかゲームボーイがすごかったね。必要最低限で。今はさ、ゲームボーイ的なのをやろうとすると色々できすぎちゃうじゃん。むしろ今テトリスしかできないあのゲーム機欲しいもんね。

まだあんのかな。ボタン電池をあのためだけに買ってたな。周りがデジモンやっている中でテトリスしてました。たまごっちもデジモンもなんか嫌だった。縛られる感じがしたから。

専用機が尊い

専用機っていうのが好きで、最近だとKindleがそうなんだけど、他のことができないってのがめちゃめちゃ良くて。そういう意味では紙とペンってすごいんだけどね。

遊びがない、選択肢がないというのが実は尊いんだなと最近になって思う。他のことができませんっていう専用機を選択するという時点で選択が終わる。この選択が終わるというのが大事。

いつまでもいつまでも広がっちゃうんだよね、スマホとかだと。フローチャートが一向に終わらない。それってのが案外ストレスだったりします。

コーヒーもね、ミル専用機とコーヒー用の電気ケトル(口が細いやつ)を使っているけどこれにしか使わないから自然と置き場の周りがコーヒーのもので固まる。不自由ではあるけど考えなくていいからとても楽。

だからなんでもできるが必ずしもいいわけじゃないのね。私なんかはよく器用だねって言ってもらえるんだけど、大体のことが70点くらいのクオリティでできるだけ。

いざ自分でじゃあ何ができるのよってなると強みがないから何もできなかったりする。頼まれればある程度こなすけど、私といえばこれだっていうのが自分にはない。

全然何もできないけど狩猟だけは得意ですとかさ。まあ極端すぎる例だったけど、電話応対抜群にいいよとかそういうのでもいいのよね。パワポ下手だけどプレゼン上手です、みたいな。

外注しろ外注しろって言われていたけど今はそれもほとんどAIがこなしてくれるようになった。注文しやすくて助かっている人は多いんじゃないだろうか。かくいう私もその一人。

文章のたたきだったり構成だったり、誤字脱字チェックとか。イラスト描くにしても下書きとかアイデアまとめとかをお願いしている。とても楽。

自分と同じ温度感と言ったら変な話ではあるけれど、作業したいときに同じ思考スピードでレスポンスが来るのがいい。背景や前提条件を伝えることで思考のスタート地点を揃えることができるから。

得意不得意をうまく利用した方がいいよね。

 

 

それができるのか。それもできるのか。

一つのことが特別できるようになって、ちょっと飽きたくらいで次のことを極めるといいと思うんだよね。理想論だけ言ってしまえばね。でもそうできない人もいる。

私がまさにそうで、そこまで極めるほど頑張れない。必要に駆られてちょろちょろ手を出して結果としてそこそこ触ったことがありますよっていうものが散らかっている。

connecting the dots はいつになったら発動するんだろうね。足の踏み場が無くなりそうだよジョブズさん。私もタートルネック着ようか?

器用なのが悪いわけではないよ

だからと言って器用なのが悪いわけではない。器用な理由を考えてみてほしい。物事の習得が早いのだ。

だから特定のスキルがないわけじゃなくて、器用な人というのは物事を理解して「ああこういうことね」と腑に落ちるまでが早いということ。

往々にしてこういう人は人当たりもいい。なぜなら頼られたり依頼される立場にないと新しいことにそんなに触れることはないからだ。

自分から取りにいっている人も中にはいるが、好奇心が褒められるべきだと思う。だから器用なだけだとか、器用貧乏みたいなことに気を落とす必要は全くない。

金になる才能じゃなかっただけ

できることがある。夢中になれることがある。ならばきっとそれは才能だ。でも全ての人の才能が必ずしも金になるわけではない。

だらだらしている才能がある人もいれば、私みたいに何でもかんでも言葉にして話せる才能がある人もいる。太鼓の達人の才能がある人もいるだろうし、YouTubeを家で見続けられる才能がある人もいる。

そんなのって思うかもしれないが、これらができない人もいるのが現実だ。どうしてもじっとしていられない、外に出たくなる。目が疲れるからYouTubeは長時間見れない、音ゲーが苦手。

みんなそれぞれに得手不得手がある。それが資本主義ゆえに金と結びつかないものは全て無価値だと認定されてしまう。できることがあっても、周りに褒められる人であっても裕福になるとは限らない。

自分で金と結びつけないから悪い?そんなはずはない。金と結びつけられる才能がある人とない人が必ずいる。向き不向きがある。マインドブロックはかかっていていい。それは自分の経験と価値観によるものだから。

資本主義は生きづらくていい。成長を止めてほしくない。

資本主義というのは格差が当たり前のように広がる。けれどもそれは頑張る人が認められる社会になったわけで、国の成長を表していると思う。

いわゆる弱者、能力のないものについては生きづらくなっているかもしれないが、それが本来のあるべき姿であると思う。みんなおんなじの社会主義を抜けた先には競争社会が待っている。

これが自然の流れであり、弱肉強食であるべきだ。とはいえ人間には知恵がある。あまり働かずたかだか年収1000万円も稼げない我々は、数億円稼いでいる企業の税金に養ってもらっている。生かしてもらえている。

与えられた自由の中で、それでも足りない辛い悲しいというのは、なんというか心が貧しい気がしてならない。

とはいえ、私だってもれなくその人種で、もっと欲しい足りない悲しい辛い病んじゃう〜と嘆いてばかりいる。ここから脱せる気はしていない。

日本はどんどん生きづらくなるし成長を求めるのであればそうあるべきだ。大卒が当たり前になってきた社会で学力が全体的に上がり能力も数十年前の人よりはきっと高い。

遺伝というのはそういうものでより強者を生むようにできている。それにより作られていく今の社会はきっとより良いものなんだと思う。

いずれ日本という国の人口が2000万人くらいになってしまったとしても他国に尊敬されるような精鋭たちの集まりになるのであればそれはそれでいいんじゃないかなと思う。

私はというとそんな優秀な方々に養われながら日本で生きていきたい。だって水道インフラここまで整っている国ないんだもの。トイレが綺麗で水道水が飲めてシャワーもお風呂も使い放題だなんて最高じゃない。

人間最後は水よ。

 

 

ABOUT ME
hayael
「言葉の万年筆」として、日々の気づきや空想を文字に刻むハヤエルです。 エッセイや創作を通じて、言葉が持つ豊かさや面白さを探求し、読者の心に響く物語を紡ぎます。 空想と現実の間を行き来する文章を発信し、日常の中に新たな視点や発見を届けられたら嬉しいです。